猫を通じて最近思うこと

猫に限らず、大好きなペットと生活を共にすることは自分自身のライフスタイルにも良い影響があると思います。

言葉が通じるわけではないけれど、そこにいるだけで「なごめる」というのは貴重な存在。ペットとの暮らしの中でいろんなことを感じ、考えています。

コンパニオン・アニマル

動物は人間に本当に大きな影響力を持つものだと思う。例えば、心が痛みを感じている時、あったかくてフワフワした猫をギュッと抱きしめることで、心の痛みが薄らいでいく。私と同じくこのようなことを経験した人は少なくないはずだ。 
厚生省が実施した調査では、動物と暮らしを共にする高齢者の多くは、実際に動物に話しかけたり、同居する動物を家族と認識しているそうだ。

つまり、私たちと暮らしている動物たちは、今まで使ってきた「ペット(=愛玩動物)」という言葉以上の存在になってきているということ。その存在価値をより正確に表現しているのが、「コンパニオン・アニマル」という言葉だ。コンパニオンというのは、「友」とか「同伴者」とか「伴に時を過ごす者」という意味。
コンパニオン・アニマルは、一人暮らしの高齢者に限らず、情操教育が大切な子供たちにとっても大きな意味を持っている。
動物と人間の間では、言葉というコミュニケーション手段が使えない。それでも心の交流ができ、ともすると、言葉が通じる人間どうしより深く感情移入することができる存在となり得る。私にとって、キングやメイミイやギズモそして1999年4月末に生まれた子供たちは、家族同様の存在。彼らがこの家にいてくれるというだけで、私の心は和むんです。
あなたもコンパニオン・アニマルと心の交流を深めてみませんか?

キャット・ショウ

本日、1999年9月4日、わが家のギズモがキャット・ショウに初出陳しました。
ショウについては、正直にいって賛否両論あります。私としては、「賛」の部分も「否」の部分も両方理解できますので、その両方を書いてみます。賛同されるか否かは、みなさん個人の判断ということで…。

まず、「賛」について。
キャット・ショウでは、それぞれの猫種のスタンダードが非常に明確に規定されています。猫をショウに出陳するのは、ブリーダーとして長年の経験を積んだ方々。つまり、最もスタンダードに近いとされる猫たちがショウに集まるということです。自分の猫を出陳しなくても、各猫種の特徴がよくわかる猫たちを見ることができます。(もちろん、自分の猫がどれだけスタンダードに近いか遠いか、いわゆる客観的な部分と、自分が自分の猫をどれだけ愛しているか、いわゆる主観的な部分とは必ずしも合致しませんけど…) 
それと、専門家から貴重な情報を入手できるというのもキャット・ショウの利点です。例えば、猫の健康を考えて餌はこれがいいとか、スプレー等の諸問題にはこういう対処方法が有効であるとか。本にも書いてないような、情報が入手できます。ブリーダーのみなさんの「経験に基づいた」情報は、とても有効です。

そして、「否」について。
猫にとって、あまりにも沢山の猫に囲まれること、1日中狭いケージに閉じこめられること、初対面の人達に身体中さわられることは、かなりのストレスがかかります。ショウが終了したら自分のすみかに帰ってこれるならまだしも、慣れないホテルで一夜を過ごすとなると、そのストレスは計り知れないものになります。「自分が愛している猫に、どうしてそんなストレスを与えることができるのか?」というのが、ショウに対して賛同しない人達の論点です。また、「自分の猫は自分がかわいいと思っていればそれでいい。他の猫たちた比較する意味はない」という主張も耳にしたことがあります。
確かに、これら二つのポイントも決して否定しきれません。
キャット・ショウに参加させるかさせないかは、結局、飼い主の判断です。
あなたは、どちらの意見に賛同しますか?

ペット・ロス

子猫たちが生まれその成長ぶりを目の当たりにしていると、いつかくるであろう別れの日のことをついつい考えてしまう。それは、子猫たちが優しい里親さんに引き取られていく日かもしれないし、永遠の別れの日かもしれない。
コンパニオン・アニマルの項目にも書いた通り、人間と一緒に暮らす動物たちは、単にペットという存在にとどまらず、本当の意味で家族の一員になるのだと思う。それは、愛情や心配りの対象者であるという点で、人間の家族と同等の存在なのだ。つまり、ペットが自分のもとを去っていくとき、愛する家族を失うのと同じくらいの悲しみを感じるのは至極当然のことなのだ。「たかがペットのことでしょう?また子猫を飼い始めたらどう?」なんて、単純に片づけられる問題ではない。

悲しみを乗り越えていくのに一番有効な方法は、自分がどう感じているかを誰かに聞いてもらうことだと思う。その悲しみを理解し、実感してくれる誰かに。もし誰かペットを失ったことについての悲しさをあなたに打ち明けることがあったとしたら、「ペットでしょう?」などと簡単に片づけずに耳を傾けてあげてください。

命の重み

人間はいつのまにこれほどまで強欲になってしまったのだろう?
自己を豊かにするためには、いかなる犠牲も厭わない。人道主義や博愛主義を口で唱えている人たちでさえ、果たしてどれほどその概念の重さを実感しているのかと疑ってしまうことがある。その一例は、動物実験である。
人間への安全性を確保するために、小さな命が犠牲になっている。 
決して恵まれているとは言えない環境に暮らさなければならない人々も、この地球上には数多くいるが、少なくとも日本ではこれまで培ってきた経験と技術で十分に快適な暮らしを送ることができると思う。これ以上、動物の命を使って安全性を証明しなければならないものがあるだろうか?
実験の犠牲になる動物たちは、食糧になる動物たちと異なると思う。自然界には食物連鎖がある。肉食動物も草食動物も雑食動物も存在している。人間が他の生物を食べるのは、本来、食物連鎖の一部に過ぎないはずである。私は、動物を殺すということに対して過剰反応するつもりはない。ただ、私たちの社会では動物の命を軽視しすぎているのではないだろうか、という疑問を持っているだけである。

人間と自然界の他の動物の違いは、「足りる」ことを知っているか否かではないだろうか。いつかテレビで見たアメリカ先住民族の言葉が頭から離れない。「ハーブ・ティをごちそうしてあげよう。その草を摘んで家に持って帰ろう。でも、根っこは抜いちゃいけないよ。来年もまたおいしいハーブ・ティを楽しみたいからね。」確かそんな内容の言葉だった。

人間が過去に繁栄を追求してきたからこそ、現在私たちは快適な生活を送ることができるわけだが、そろそろ人間たちも「足りる」という概念を再認識する必要があるのではないだろうか?適度な「欲」は工夫をもたらしてくれるものだが、「強欲」は破滅をもたらすだけなのだ。人間が他の生物と調和を保ちながら地球に存在していくことはできないのだろうか?